すごくどうでもいい話

読めば読むだけ時間が無駄になるブログ

ゲスい話

まずはお詫びから。
先週はいろいろ忙しかったので、書けませんでした。まあ、週一投稿とは誰も言ってないので、広い心で許してください。

では本題。

僕は最近「ゲスの極み乙女」をよく聞く。良くも悪くも世間を騒がせたあのバンドだ。こういうと、僕の捻くれ者の友達は 「ニワカだ」 とか 「お前は薄っぺらい」 だとかってすぐ言うのだが、今回はそんな話ではない。

ゲス極のPVとかをたまに動画サイトで見ると、未だに不倫に関するコメントが意外とあることに驚く。ボーカル、川谷絵音のツイートにも変なリプが沢山つく。

そもそも僕は公式アカとか有名人にリプ送るやつ自体あんま好きじゃないので、こう言う人とは絶対友達になれないと思う。

しかも、

しかもだ。

こういうやつに「川谷絵音の何が嫌い?」って聴くと、さも当然のように 「不倫したから」 と返ってくる。

不倫したから川谷絵音が嫌いなのだろうか。

関係ないのだ。ほんとうに。
不倫と本人の作品は全く関係ない。
まあ、本人はアーティストだという点から鑑みて、作詞は各人の価値観を表現する音楽活動だとすると、不倫はその価値観の乱れなので、全く関係ないということもない。と譲歩することもできる。
でも、そういう人に限って判で押したように
川谷絵音はいい曲作るけど、不倫したから嫌い」
とかいう。これはほんとに理論の破綻も甚だしい。いい曲作るって認めてる時点でこれは大きな矛盾だ。
それはもうお前、「川谷絵音」が嫌いなんじゃなくて「不倫」が嫌いなんだよ。

で、散々叩いたあと、自分が信ずるものが同じ立場に立たされるとどうだろう。文春に拾われたり、「ゲス不倫」の槍玉に挙げられたり。パターンとしてまず考えられるのは
「○○不倫とか幻滅。ファンやめます」
みたいなやつ。これはマジでクズ。だいたい「○○のファン」とか言ってるけど、不倫ごときでやめられるなんてちゃんちゃらおかしい話で、それは○○の「作品のファン」だったのではなく、○○「自体のファン」、つまりべつにどんなに素晴らしい作品を残そうと目もくれなくて、ただ「○○の存在」を好きな僕私が可愛かっただけなのだ。

他にも
「○○不倫したけど、私はファンでいる!頑張って!」
とかいう人。心優しきひとりのファンに擬態しているが、べつに涙ぐましくもなんともない。
「不倫したけど」?そのけどってどういう意味?
不倫して散々社会から叩かれてて哀れだ
けど善良な「ファン」の私は救ってあげますよ、の「けど」?
結局そいつらも仕事なんか見ちゃいない。「ファン」であることにしか意義を見出せていないから。

そうやって自分のことをやれファンだ、やれ批評家だと思っている人が多いが、世間はそれを「バカ」とくくる。不倫不倫とメディアに扇動されて、ネットで叩くのはさぞかし楽しいだろう。ネットニュースを見て大泣きしてる私はさぞかし綺麗に見えることだろう。ただ第三者的にはとてもとても。

だから、本当に取るべき行動は沈黙。
不倫したとしても、いい曲を作れば「いい曲でした」。いいライブをすれば「楽しかったです」。そう素直に言えばいいのだ。そこに不倫という倫理的な物差しは必要ない。と思う。

こんなことを言っているが、別に僕も不倫は悪いことだと思うし、不倫擁護派でもない。社会的に見ても、不倫は許されることではない。

でも不倫を叩くための道具にしてはいけないと思う。本当に不倫してはいけない人が万が一やってしまった時に、それを批判するべきであって、叩きたいから手近にあった道具で叩くというのでは、サルと大差ない。

つまるところ、言いたいのは、
「全然関係ない方向からの作品への批判はとても馬鹿らしい」
ということ。これは不倫に限ったことではない。脱税とか、未成年飲酒とか。クスリは創作活動に影響が出るのでちょっと流石に厳しいかもしれないけど。人間自体への評価なら批判要素となり得るが、作品への評価には全く影響しない。土俵が違うのだ。

そうやってくだらないことばかりいってるとロクな大人になれない。そう思いました。