すごくどうでもいい話

読めば読むだけ時間が無駄になるブログ

アイの話

先に断っておくが、今回はかなり自伝的な話になるので興味ない人は全然読み飛ばしてもらっても構わない回だ。今週は無駄な時間を過ごさずに済むぞ。よかったな。

ところで

「アイ」の話と言っても愛情論の話をしたいのではない。一人称のIのことだ。
英語だと一人称はIのみで、それ以上でもそれ以下でもない。ただ日本語だと色々な種類がある。みんなそれぞれ自分に合ったものを使っていると思うのだが、

僕は「僕」を使っている 。

実際高校生になっても「僕」を使っている人は結構珍しいと思う。身の回りにも数えるほどしかいない。おそらく一番有名な「僕」ユーザー

まずは経緯を説明したい。
僕が3歳くらいの頃、一人称は「そうちゃん」だった(笑いたきゃ笑え)。でも、さすがにそのまま育てるのは良くないと思った母親が
「『そうちゃん』じゃないでしょ!『僕』でしょ!」
と何度も指導した。今思えば母親が悪い。こうして「僕」ユーザーに見事に転生した僕は次第に大きくなって、小学校に入学した。保育園を出るあたりから、身の回りには「俺」使いがじわじわと増えてきていた。
こいつも悪い。なにが「俺はサトシ」だ。

小学校に入ると空前の「俺」ブーム。周りはほぼ「俺」使いになった。

簡単に言うと、シフトし損ねたのだ。「俺」に。
正直何度も試みた。家で一人の時、何度も「俺は〜」とか言ってみた。でも、なんか違う。僕は「僕」で「俺」じゃない。苦悩した。友達に
「なんで僕なのー?」
と無邪気に聞かれるたび、複雑な気持ちになった。僕はなにもこうなりたくてなったわけじゃないのに。

だんだん学年も上がり、卒業が見えてきた頃、シフトするのはもはや状況的に不可能になっていた。急に変えたら「え…?」という目で見られるだろう。もう無理だ。一生「僕」ですごそう。さすがにその頃には慣れてきていたので、そう思い切ることができた。

中学時代、僕は「僕」を使うことにある種、誇りすら感じていた。「僕は『僕』だ!『俺』じゃない!」と。ついに「僕」ユーザーとして大輪の花を咲かせたのだ。めでたしめでたし。

実際良かったのかもしれない。これで。
僕はこの一人称によって僕としてのアイデンティティを確立しているし、僕に「俺」はやっぱり似合わないだろう。





しかも、なにも信念なく「僕」を使っているわけではない。
「僕」という響きはいかにも純粋で一直線そうだ。大人しそうな音じゃないか。「朴」の音にも似ている。うわべを飾らず、素直そうじゃないか。「牧」とも音を同じにしている。見るからにおおらかで、雄大な北海道の自然を思い出しそうだ。自給自足してそうだ。

ハリー・ポッター」のハリーも「僕」使いらしい。見たことないが。
「僕」使いはなんだか魔法使いになれそうじゃないか。素直で純粋で一直線なおとなしい「僕」使い。自給自足生活。まるで魔法使いだ。30歳の。

かくいうこいつは孫ができた設定なので魔法使いにはなれなかったとみえる。失望。


結局アイはアイでも一人称ではなく情愛の話になってしまった。それも「哀」の方だ。悲しいね。